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「殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか? ヒトの進化からみた経済学」の要約と批評

著者:ポール・シーブライト、山形浩生(訳)、森本正史(訳)
出版社:みすず書房
出版日:2014年01月10日

人類に特有な分業という能力

人間は、同じ種の中で遺伝的につながりのない者同士が協力し、分業を行う唯一の動物である。分業は言語に匹敵するほど驚くべき人間の特徴であり、私たちは日常生活に必要なものの多くを他人から得ている。

シャツに見る「責任者なしの協力」

シャツを買うとき、誰かに伝えていなくても、世界中から原料が集められ、複数の工程を経て商品が届く。その過程には無数の人が関わっているが、全体を調整する責任者はいない。それでも世界には多様なシャツが供給されている。

視野狭窄がもたらす協力

この「責任者なしの協力」を可能にしているのが「視野狭窄」である。全体像を知らなくても、それぞれの役割を果たす能力のことだ。これは1万年前の農耕時代以降に発達した新しい人間の技能である。

集団生活のメリット

人類が大きな集団で暮らすことには3つの利点がある。リスクの分担、専業化の進展、そして知識の蓄積である。

専業化の発展

専業化は狩猟採集時代から始まった。シャツ作りを例にすれば、すべてを一人で行うのは現実的でない。技能や自然条件に応じて役割を分けることが効率的である。定住と農業の開始によって軍隊や司祭職なども発達した。

信頼を可能にする2つの能力

血縁関係のない人を信頼するには、協力の費用と便益を計算する「打算」と、親切には親切で返し裏切りには報復する「返報性」が必要だ。この2つの気質が進化したことで、人類は見知らぬ人とも取引できるようになった。

信用を支える制度 ― お金と金融

お金は、相手を知らなくても価値あるものと交換できる制度である。さらに銀行システムはリスク判断を肩代わりしてくれるが、2007年の金融危機のように信頼の弊害も生み出す。

都市という大規模な結果

人間の協力は意図せず都市を生み出した。都市は創造性と革新をもたらす一方で、公害や疫病を集中させる問題も抱えている。

市場の役割と限界

市場は資源管理や価格調整の仕組みを提供するが、すべての分業を調整できるわけではない。企業や組織などは市場を介さずに成立している。

国家と政治の役割

国家は防衛のために誕生したが、現代では課税や規制、所得再分配などで大きな役割を担う。これは分業の弱点を補う一方で、政治そのものが新たな分業を生んでしまう危険もある。

協力という大いなる実験

人類の協力は1万年前に始まった大実験である。グローバリゼーションや環境問題などの課題も過去の延長線上にある。合理的な思考と協力の維持が必要であり、この実験はまだ始まったばかりなのだ。

批評

良い点

本書の最大の魅力は、人類社会の協力や分業を「責任者なしの協力」という独創的な視点から捉え直している点にある。著者はシャツ製造の具体例を用いて、誰一人全体像を把握していなくても世界規模の分業が成立する驚異を読者に実感させる。また、「視野狭窄」という概念を進化史や制度史と結びつけて説明することで、現代社会の繁栄の根幹をわかりやすく示している。特に、打算と返報性が信頼を支える基盤となり、さらに制度としてのお金や金融が協力を支えてきたという分析は、経済学・人類学・社会学を横断する広い射程をもち、読者に深い洞察を与える。

悪い点

一方で、本書にはいくつかの限界も存在する。まず「視野狭窄」という概念がやや多義的に使われており、社会的役割分担を説明する鍵ではあるものの、その境界が曖昧なため、時に説明が循環的に感じられる。また、国家や市場といった制度の分析においては、現実の多様性や地域的差異が十分に扱われていない印象を受ける。たとえば、国家の規制が常に場当たり的であると断じる部分は、制度設計の長期的成果や政治文化の違いを軽視しているように思える。さらに、環境問題への言及は鋭いが、解決策の提示が市場メカニズムと国家の二分法にとどまり、現代的な技術革新や市民社会の役割への洞察が不足している。

教訓

本書から導き出せる重要な教訓は、人類の協力は本能ではなく「進化の中で獲得された脆弱な仕組み」に過ぎないという点である。したがって、協力は不断の制度的工夫や合理的思考によって支えられなければならない。信頼は単なる善意ではなく、打算と返報性のバランスによって維持されることを理解することは、個人の人間関係から国際関係に至るまで応用可能な教えである。また、分業がもたらす繁栄は同時に責任の拡散や環境破壊といったリスクを伴うため、その負の側面を軽視せず、制度的補完を続ける必要性を本書は強く訴えている。

結論

総じて本書は、人類史を「協力の実験」として描き出す試みであり、現代社会の繁栄と危機の双方を理解するための強力な枠組みを提供している。協力を支える心理的・制度的基盤を歴史的に追跡し、グローバリゼーションや環境問題といった現代の課題を過去からの延長線上に位置づけた点は評価に値する。しかし同時に、その分析には抽象度の高さゆえの限界も存在し、制度の多様性や現代的文脈の複雑さを十分に捉えきれてはいない。それでもなお、人類の協力の歴史を「大いなる実験」として意識させ、未来に向けてそれを支え続ける必要性を説く本書は、批評的に読むに値する一冊である。