著者:ジェームズ・J・ヘックマン、古草秀子(訳)
出版社:東洋経済新報社
出版日:2015年07月02日
成功に必要なのは認知スキルだけではない
人生で成功するためには、IQテストや学力検査で測定される認知スキルだけでなく、肉体的・精神的健康、忍耐力、協調性、意欲、自信、計画力などの非認知スキルも重要である。これらのスキルは幼少期に発達し、その発達は家庭環境に大きく影響される。
アメリカで進む家庭環境の悪化と学力低下
アメリカでは家庭環境が悪化しており、過去30年間で特に男性の高校卒業率が低下した。さらに、スキルの低い移民の流入により、低スキル労働者が増加している。現に、アメリカの労働者の20%以上が医師の処方箋の指示を理解できないという問題がある。
公教育の限界と非認知スキルの重要性
現在のアメリカの公教育はテストによる認知能力の評価に重点を置いている。しかし、賃金、就労年数、大学進学、犯罪率、十代の妊娠などに影響を与えるのは非認知スキルでもある。著者は、就学前教育のデータを用いてその重要性を示している。
幼少期に生じるスキル格差と家庭環境の影響
子供の認知的到達度や社会性・情動スキルは幼少期にすでに格差が生まれ、その後も続く。こうした格差の背景には、家庭環境の質が深く関係している。
貧困家庭の増加と教育格差の拡大
アメリカでは貧困家庭やひとり親家庭が増加し、恵まれない家庭の子供は豊かな幼児教育を受けにくい。高学歴な母親を持つ子供と、そうでない子供との間に大きな教育・育児環境の差が存在し、その差は過去30年間で拡大し続けている。
幼少期の不利な体験が与える長期的な影響
幼少期に虐待やネグレクト、家庭内暴力などの悲惨な体験をすると、脳の発達に悪影響を及ぼし、成人後の健康、社会適応、労働能力にも深刻な影響を与えることが研究で示されている。
幼少期の介入がもたらす効果
恵まれない子供の環境を改善するために有効とされるのが、幼少期からの教育支援である。代表的な研究として「ペリー就学前プロジェクト」と「アベセダリアンプロジェクト」がある。
ペリー就学前プロジェクトの成果
経済的に恵まれないアフリカ系アメリカ人の幼児に対し、教室での授業と家庭訪問を組み合わせた教育を提供。約40年間の追跡調査で、学歴・所得の向上や犯罪率の低下など、長期的な効果が確認された。
アベセダリアンプロジェクトの成果
リスクの高い家庭の子供に、生後数か月から家庭学習支援や親の就労支援を実施。30歳時点の追跡調査で、学力や収入の向上、生活保護受給率の低下が確認された。
幼少期教育への投資効果
ペリー就学前プロジェクトの投資収益率は6〜10%と推定され、成人対象の教育支援よりも効果が高い。幼少期の投資は、社会政策の公平性と効率性の両立を可能にする。
専門家のコメントと多様な視点
著者の主張には賛同と批判の両方がある。
- 教育学者は職業訓練や思春期の介入の重要性を指摘。
- 一方で、父親の役割への言及不足や、研究サンプルの少なさを批判する声もある。
著者の結論と提言
成功のためのスキルは幼少期に大きく育まれる。とりわけ生後から5歳までの投資が重要であり、その後の支援でフォローアップすれば長期的な社会的利益を得られる。著者は、就学前教育を家族の尊厳を尊重しながら普及させることを提案している。
日本の現状と課題
日本では幼児教育の普及率は高いが、近年は子供の貧困が深刻化している。非正規雇用や母子家庭の増加により、家庭教育の格差が広がっている。
公的支援の必要性と投資の重要性
日本でも経済的に恵まれない子供への就学前教育支援が必要である。限られた予算の中で効果的に投資を行うため、幼少期教育の投資効果をデータで示し、社会的理解を広めることが重要だ。
批評
良い点
本書の最大の強みは、従来の「学力=成功の鍵」という単線的な発想を覆し、非認知スキルの重要性を体系的かつ実証的に示している点にある。著者は忍耐力や意欲、計画力、協調性などの社会的・情動的な能力が、賃金、雇用、犯罪率といった社会的成果に大きな影響を及ぼすことを、長期追跡データを用いて明快に説明している。また、ペリー就学前プロジェクトやアベセダリアンプロジェクトなど、数十年にわたる厳密な調査を提示することで、早期介入の費用対効果を具体的な数字(利益率6~10%)で裏付けている点も説得力が高い。さらに、アメリカと日本の社会的背景を対比させ、日本でも貧困の連鎖を断つための幼少期支援の重要性を論じている点は、海外研究を単なる輸入で終わらせず、読者にとっての現実的な示唆を与えている。
悪い点
一方で、本書にはいくつかの限界も見られる。まず、著者が主張の根拠として用いる代表的なプロジェクトが少数のサンプルによるものである点は、チャールズ・マレーらが指摘するように統計的な頑健性に疑問を残す。また、著者は家庭環境を語る際に母親の役割に重点を置きすぎており、父親や地域コミュニティの影響、現代の多様な家族形態に十分な配慮をしていない。さらに、非認知スキルの定義や測定方法がやや抽象的で、具体的な育成プロセスを教育現場にどう落とし込むのかが不明確な部分もある。政策提言の実装可能性についても、「誰が費用を負担し、どのように公平に対象を選ぶか」といった実務的課題には触れているが、具体策には踏み込み切れていない印象を受ける。
教訓
この本が読者に与える最も大きな教訓は、「人生の成功はテストの点数だけで決まらない」という事実だろう。幼少期に築かれる非認知スキルは、学歴や職業選択だけでなく、人生全体の幸福度や社会的安定にまで影響する。特に、経済的に不利な家庭に生まれた子供たちに対して、早期から質の高い教育的支援や親子関係の改善を行うことが、将来の貧困や犯罪、社会的コストを減らすうえで非常に有効であると教えてくれる。また、思春期や成人期の介入の意義も完全に否定するのではなく、どの時期にどのようなスキルが形成されやすいのかを理解することが重要であると気づかされる。家庭と社会が子供の発達に与える影響を再認識するきっかけになる一冊だ。
結論
総じて本書は、認知スキル中心の教育観を刷新し、早期介入の社会的投資としての価値を明確にした意義深い研究書である。実証データに基づく説得力のある議論と、政策への応用可能性を提示した点は高く評価できる。ただし、家庭像の偏りやエビデンスの限定性、実装面の課題については批判的に受け止める必要があるだろう。それでもなお、本書は「教育は未来への最大の投資である」というメッセージを強く発信し、読者に社会的連帯と制度改革の必要性を考えさせる。日本の子育て環境や教育政策を見直す契機としても、十分に価値のある一冊といえる。