著者:川又英紀、山端宏実、加藤慶信、日経情報ストラテジー(編)
出版社:日経BP
出版日:2015年03月20日
ネスレ日本の直販戦略と「ネスカフェアンバサダー」
ネスレ日本は、直販比率を2013年の8%から2020年には20%に伸ばす方針を掲げている。中核施策は「ネスカフェアンバサダー」で、職場にコーヒーマシン「バリスタ」を無料提供し、専用カートリッジを継続購入してもらうフリーミアムモデルを採用。1杯20円の代金を同僚から徴収する仕組みで、定期購入が増えれば先行投資を回収し、安定的な利益が見込める。
アンバサダー拡大に挑む津田匡保氏
この事業を推進するのは、販売担当から異例の転職を遂げた津田匡保氏。アンバサダーを現状の3倍・50万人に増やすため、対象オフィス規模の拡大と「オフィス」の定義拡大を進めている。
職場と公共空間への展開
小規模拠点だけでなく中規模オフィスにも展開し、イトーキと協業してマシン設置台を提供。さらに、公民館やトラック運転席など、人が集う場所全般を新たな販路とした。
利用者の声を反映した工夫
「ラク楽お届け便」など定期購入サービスを導入し、離脱者ゼロを達成。夏場の需要減少にはアイスコーヒーを提案し、ボトル販売を急増させた。事業単体は赤字だが、相乗効果で「バリスタ」が日本一売れるマシンへと成長した。
トヨタの農業IT改革「豊作計画」
トヨタの喜多賢二氏は、鍋八農産と協力し、スマホを活用した農業IT改革に挑戦。クラウド技術を応用し、作業進捗をスマホで確認・共有できるシステム「豊作計画」を導入した。
トヨタ流工程管理で効率化
作業を工程として標準化し、1日単位で計画を立案。現場体験を通じて農業も製造業同様に工程管理が可能であると学んだ。
効果と成果
2013年には資材費25%、労務費5%を削減。田植えに合わせた育苗の管理で無駄を減らし、農業版「ジャスト・イン・タイム」を実現した。将来的には稲作ビッグデータ活用による質向上も目指している。
DeNAの遺伝子検査サービス「MYCODE」
DeNAの南場智子氏は、夫のがん闘病経験をきっかけにヘルスケア事業に参入。2014年に子会社を通じ遺伝子検査サービスを立ち上げた。
チーム作りとリーダー選定
社内でゲノム知識を持つ人材を探し出し、宮野氏や深澤氏と出会う。深澤氏をリーダーに据え、「倫理面に配慮した体制作り」に注力した。
サービス提供と組織改革
精神的負担を与えない表現方法を工夫し、ゼロから体制を整備。DeNAの強みであるエンタメ性も活かし、2014年8月に「MYCODE」を開始した。
イノベーションカフェの挑戦
大成建設の田辺氏、データサイエンティストの河本氏、CIOの木内氏が立ち上げたコミュニティ「イノベーションカフェ」。社内の異能ベーターが正当に評価される場を目指す。
社内変革としてのイノベーション
イノベーションは新規事業開発に限らず、社内改革が重要。データ分析を「見える化」し、現場を動かすことがカギとなる。
改革を広げるアプローチ
小さな改善を積み重ねて信頼を獲得し、独走ではなく独創を重視する姿勢が必要だ。
NTTドコモにおけるデータ活用改革
白川貴久子氏は、現場と情報システム部門をつなぐ役割を担い、分析チームが「便利屋化」している課題に着目。現場ニーズを徹底的にヒアリングし、「データ活用のパートナー」へと変革させた。
横断的な取り組みと成果
「データ分析おたすけサイト」や「分析事例発表会」を立ち上げ、組織横断で知見を共有。解約予兆モデルとDM施策により、スマホ解約率を3分の1に削減した。
目指す理想像
専門組織が不要になるほど、全社にデータ分析の仲間が広がることを理想としている。
批評
良い点
本書の大きな魅力は、多様な業界におけるイノベーションの具体的事例を豊富に紹介している点である。ネスレの「ネスカフェアンバサダー」ではフリーミアムモデルを活用し、職場や公共空間に浸透させる巧みな戦略が示されている。トヨタの農業支援プロジェクトは、製造業で培った工程管理を農業に応用し、クラウド技術と現場体験を融合させた点で説得力がある。DeNAの遺伝子検査事業は、経営者自身の個人的経験を起点に社会的意義の高い分野へ踏み込んだ挑戦であり、企業の新規事業が必ずしも経済合理性だけで動くものではないことを伝えてくれる。また、イノベーションカフェやNTTドコモの事例は、社内文化や現場との橋渡しといった「組織内の見えにくい課題」へのアプローチを描いており、読者にとって共感しやすい。
悪い点
一方で、本書にはいくつかの弱点も見受けられる。まず、紹介される事例の多くが成功例に偏っており、失敗や挫折の具体的な検証が乏しいため、読者は「イノベーションは必ず成果につながる」という誤解を抱きかねない。例えばネスレのアンバサダーモデルは単体では赤字であると明記されているが、その持続可能性や長期的リスクへの分析は浅い。また、トヨタの農業IT改革も「現場にスマホを浸透させる苦労」が紹介されているものの、農業従事者の高齢化や地域格差といった根本的課題には踏み込んでいない。さらに、DeNAの遺伝子検査事業においては倫理的配慮が重視されたと記述されるが、遺伝情報管理のリスクや社会的な賛否については表層的に触れるに留まっており、やや一方的な成功ストーリーに見えてしまう。
教訓
それでも本書が教えてくれるのは、「イノベーションは現場のニーズを深く理解し、小さな改善を積み重ねることで初めて花開く」という普遍的な真理である。ネスレの津田氏がアンバサダーの声に誠実に応え続けた姿勢や、トヨタの喜多氏が実際に農作業に従事し課題を体感した経験は、単なる机上の戦略ではなく「現場主義」の重要性を示す好例だ。また、南場氏が個人的体験を社会的事業に昇華させたように、強い使命感や個人の思いが企業の枠を超えた価値を生み出すこともある。イノベーションは奇抜な発想だけでなく、現場の信頼、組織文化の変革、倫理的な配慮といった複合的要素が組み合わさることで初めて実現するという点は、あらゆる読者に示唆を与える。
結論
総じて本書は、業界や規模を問わずイノベーションがいかに生まれ、どのように組織や社会に広がっていくのかを多面的に描いた一冊である。成功例中心の記述ゆえにやや楽観的な印象は否めないが、現場を重視する姿勢や小さな改善から大きな変革へとつなげるプロセスは、ビジネスパーソンにとって極めて実践的な示唆に富む。ネスレ、トヨタ、DeNAといった大企業の取り組みを読み解くことで、規模の大小を問わず、自分自身の職場や生活の中に応用できるヒントを見出せるだろう。本書は「イノベーションとは人を動かすこと」というメッセージを軸に、読者に挑戦する勇気と実践の具体像を提示している点で、批評的視点を交えつつも評価すべき意欲的な作品である。