著者:入山章栄
出版社:英治出版
出版日:2012年11月13日
ドラッカーの位置づけ
日本では「経営学の父」と称されるピーター・ドラッカーの著書が数多く読まれている。しかしアメリカでは研究の題材として扱われることは少なく、議論の対象にもならない。その理由は、ドラッカーの言葉は「名言」ではあっても、学問的に検証可能な「科学」ではないと考えられているからである。
HBRは学術誌ではない
ハーバード・ビジネス・レビュー(HBR)は学術誌と誤解されがちだが、実際にはそうではない。新しい経営手法や戦略の紹介はあるものの、科学的な分析や検証データを詳細に報告しているわけではない。
大学教授の昇進基準
アメリカの大学では、教授職はアシスタント、アソシエイト、フルの三段階制となっている。昇進で最も重視されるのは「一流学術誌への論文掲載数」であり、授業の評価はほとんど考慮されない。学生からの評価は平均的であれば十分とされている。
経営学に統一教科書は存在しない
「博士課程で使う標準的な経営学の教科書」を尋ねられることは多いが、実際には存在しない。経営学は大きく「マクロ」と「ミクロ」に分かれ、それぞれ複数の分野が発展してきたためである。
- マクロ分野:経営戦略論、組織論、国際経営論、アントレプレナーシップ論、技術経営論など。
- ミクロ分野:組織行動論(チーム行動、リーダーシップ、人的資源管理など)。
経営学の三大ディシプリン
経営学研究は主に次の3つの学問的基盤から発展している。
- 経済学ディシプリン
人間は合理的に選択するという前提に基づく。マイケル・ポーター教授が代表例。 - 認知心理学ディシプリン
人や組織の情報処理能力には限界があるという前提。ハーバート・サイモンを始祖とし、イノベーション経営の理論に大きな影響を与えている。 - 社会学ディシプリン
社会的な相互作用を研究対象とし、統計やシミュレーションを活用する。
競争戦略論の進展
ポーターの「ファイブ・フォース」「バリュー・チェーン」などは定番だが、近年はそれだけでは十分ではないとされる。研究者ウィギンズとルエフリは、競争優位の持続はごく少数企業に限られること、優位の期間が短くなっていること、一時的な優位を積み重ねる企業が増えていることを明らかにした。
この結果、「守りの戦略」だけでなく積極的な競争行動が重視されるようになっている。
研究手法の変化
シェイバー教授の研究は、従来の戦略研究における回帰分析の限界を指摘した。たとえば「独自資本による海外進出が業績にプラスか」という議論は、企業の技術力など他要因を考慮しなければ誤った結論になる可能性がある。このような問題は「内生性の問題」と呼ばれる。
イノベーションと両利きの経営
シュンペーターは「イノベーションとは知の新しい組み合わせである」と定義した。イノベーションを生み出すには、知の多様性が不可欠である。そのため、オープン・イノベーションや「両利きの経営」(知の探索と深化の両立)が重要視されている。
成功事例としては3Mの「15%ルール」やIDEO社のブレインストーミング文化がある。
買収プレミアムの研究
企業買収額の上乗せ(プレミアム)は次の要因によって説明される。
- 思い上がり:経営者の過信。
- あせり:競合への遅れを焦る心理。
- 国家のプライド:国を代表する意識による過剰支払い。
現代経営学の課題
世界の経営学は以下の課題に直面している。
- 理論への過度な偏重による乱立。
- 面白さを追求するあまり、実際の法則分析が軽視される。
- 平均に基づく統計手法では、独創的企業の成功を捉えられない。
これらに対処するため、エビデンス・ベースト・マネジメントやベイズ統計の導入など、新たな研究アプローチが模索されている。
まとめ
経営学は「知のフロンティア」を広げる学問であり、現在も日々進化している。10年後には、今日とはまったく異なる姿を見せているだろう。
批評
良い点
本書の最大の強みは、経営学という学問領域を多角的に整理し、読者に対してその「現実の姿」を具体的に示している点である。ドラッカーの位置づけから始まり、HBRの性質、アメリカ大学における評価制度の実態、そして経営学の三大ディシプリンの分類に至るまで、一見するとバラバラに見える要素を体系的に接続している。特に、経済学・認知心理学・社会学というディシプリンの違いを明示し、それぞれの学者や研究潮流を紹介している箇所は、経営学を単なる「経営ノウハウ」としてではなく、学術的な理論体系として捉える視座を読者に与えている。また、ポーターの競争戦略論から、競争優位が持続しにくくなっている現代的状況へと議論を展開している部分は、単なる理論の紹介にとどまらず、現実の変化に伴う学問の進化を感じさせる。豊富な事例と学術誌の名を織り交ぜつつ、研究がどのように実務や企業戦略と関わっているのかを示している点は、批評対象として評価できる重要な要素である。
悪い点
一方で、本書にはいくつかの難点がある。第一に、情報量が極めて多いため、読者が要点を見失いがちである。特に経営学のディシプリンの説明から始まり、競争戦略論、イノベーション論、買収プレミアム、統計学的課題と論点が移り変わる過程では、全体の統一的なテーマがややぼやける印象を与える。また、ドラッカーやHBRに関する冒頭の記述と、最後に語られる「世界の学者が挑む課題」の部分との間に、論理的な接続が薄いため、読後感として「断片的な論文紹介の寄せ集め」に近く感じる読者もいるだろう。さらに、専門用語や固有名詞が大量に登場するため、経営学の基礎的知識を持たない読者には理解が難しく、読者層を限定してしまっている点も否めない。要するに、学術的誠実さは保たれているが、読み手にとっては「知識の洪水」となり、論旨の筋道がやや曖昧になる部分が見受けられる。
教訓
本書から得られる教訓は二つに整理できる。第一に、学問と実務の間には大きな隔たりが存在し、その距離をいかに埋めるかが経営学にとっての永遠の課題であるという点である。ドラッカーがアメリカで「名言の人」とされる一方、日本で広く経営者に読まれている事実は、学術的厳密性と実務的有用性が必ずしも一致しないことを示している。第二に、経営環境の変化に伴い、従来の「持続的競争優位」という概念すら揺らぎ始めていることだ。優位性は一時的にしか保てず、それを連続させる戦略が求められる。この視点は、経営理論が過去の巨匠の理論を盲信するのではなく、常に現実の変化に即して再構築され続けるべきことを教えてくれる。さらに、統計的分析やベイズ的発想など、方法論の革新が学問の進歩に不可欠であることを強調している点も見逃せない。
結論
総じて、本書は経営学の現状と課題を一望できる力作であり、読者に多くの刺激を与える。ドラッカーから始まる議論は、やがて学問のフロンティアに至り、最後には「未来十年後には全く新しい地平が見えているだろう」という希望的予測に収束する。その構成は必ずしも一貫しているとは言えないが、むしろ学問の複雑性や多様性をそのまま映し出しているとも解釈できる。つまり、本書の価値は「完全な整理」ではなく、「経営学がいかに広く、揺らぎを含んだ知の体系であるか」を実感させる点にある。読者は、学問と実務、理論と現実、安定と変化という二項対立を往復しながら、経営学の本質に迫る契機を得るだろう。従って本書は、批評対象としてはやや散漫である一方で、知的刺激の源泉として大いに意義を有すると結論づけられる。