著者:池田信太朗
出版社:日経BP
出版日:2012年12月17日
新浪の就任と最初の挑戦
2002年6月、社長に就任した新浪は、初めての朝礼で緊張しながら社員たちに語りかけた。
「どのチェーンにも負けない、おいしいおにぎりを作りたい」
しかし、会場の空気は冷ややかだった。古参社員の中には失笑する者もいた。ハーバードMBAを持つが小売業の経験がないエリートが、気まぐれを言っているだけだと思われたのだ。新浪自身も社員の不信感を肌で感じていた。
背景にあった「資本の論理」
この不信感の背景には、ローソンの経営を取り巻く複雑な事情があった。
1990年代末、ローソンは親会社ダイエーの財務悪化により、株式の一部が三菱商事に売却された。これは商社の「小売り進出」というよりも、むしろ金融機関が主導する「債権回収」の色合いが強い取引だった。
その後、株式市場の低迷やITバブル崩壊の影響で、ローソン株の評価は下落。ローソン本体としては無関係な「資本の論理」に翻弄され、社員たちは親会社や経営に強い不信感を抱いていた。
「おにぎり改革」の始まり
新浪が最初に挑んだのは、おにぎりの商品開発だった。
しかし驚くべきことに、彼は商品部を排除し、素人ばかりのプロジェクトチームを立ち上げた。業界経験者からは「素人に何ができるのか」という冷笑が浴びせられた。
一方で、経験がないからこそ自由な発想が生まれた。
「サケはフレークではなく切り身を」「豚の角煮を入れよう」「米は産地にこだわるべきだ」といったアイデアが次々に出され、試作を重ねた結果、高品質なおにぎりが誕生した。価格は通常の2倍近い168円。それでも発売から2か月で1億個を売り上げ、大成功を収めた。
この成功は、業績悪化や不信感で沈んでいた社員たちに大きな自信と希望を与えた。
「個」を重視した新浪改革
おにぎりの成功を足がかりに、新浪改革は本格的に動き出した。
彼の改革の軸は「中央集権」ではなく「地方分権」だった。2003年に全国を7支社に分け、商品戦略や人事権を本社から現場へ委譲。支社や店舗ごとに地域に合わせた戦略を展開できる体制を作った。
たとえば東北地方では高齢者向けに「手作りおにぎり」を販売し、利益率やリピート率で成果をあげた。現場が地域に即したアイデアを実現することで、ローソンは多様な業態――「ナチュラルローソン」「ローソンストア100」「薬局併設型店舗」など――を展開していった。
中央集権モデルとの違いと意義
セブンイレブンは、全国の店舗に一律の仕組みを徹底させる中央集権型の経営を強みとしていた。
しかしローソンには、その仕組みを徹底する体力も資源もなかった。そこで新浪は、弱みを逆手にとり「地方分権」という真逆の経営を選んだのである。
本社は「小さな本社」として機能を絞り込み、ITインフラや顧客データ分析に注力。POSでは見えない「個客」のニーズをつかみ、現場と共に商品開発を進める戦略拠点となった。
新浪経営の面白さは、「勝てないからあきらめる」のではなく、限られたリソースを組み替えて「勝てる形」を作り出すところにあった。
批評
良い点
本書の最大の魅力は、物語性の強さと臨場感にある。冒頭で新浪社長が社員を前に語る場面は、冷ややかな空気と緊張感が的確に描かれており、読者は一気にその場に引き込まれる。また、資本の論理に翻弄されるローソンの経営史を背景として、社員の不信感が積み重なっていたことを丁寧に描き出すことで、組織の内部事情が単なる企業ストーリー以上のドラマ性を帯びて伝わる。さらに、「素人集団」によるおにぎり開発の成功が、逆境を打ち破る象徴的なエピソードとして配置されている点も巧みだ。結果として読者は、経営改革が単なる数値の改善ではなく、現場の自信と信頼の再構築につながったことを強く実感できる。
悪い点
一方で、本書には課題も少なくない。まず、情報量が非常に多く、経営史、金融機関の動向、競合比較、改革の詳細などが一挙に詰め込まれているため、読み手によっては論点が散漫に感じられる恐れがある。また、筆者の視点が新浪寄りに傾きすぎており、彼の施策が「常に正しい」と読者に思わせる構成になっていることも気になる。例えば、商品部の排除や強引なリーダーシップが持つ潜在的なリスクや社内摩擦の持続的影響については、十分に検討されていない。さらに、セブンイレブンとの比較において「弱者の戦略」としてローソンを称賛する一方で、中央集権型のメリットについては表層的に触れるにとどまり、議論のバランスを欠いている点も惜しい。
教訓
本書から読み取れる最大の教訓は、組織における「信頼の再生」が経営改革の根幹をなすということだ。新浪はエリートでありながらも、最初は社員から冷笑される存在であった。しかし、象徴的な「おにぎり」プロジェクトの成功を通じて、社員の心を動かし、自信を取り戻させた。ここから見えてくるのは、改革の本質が制度や数値管理だけでなく、現場が「やれる」と感じる体験を共有できるかどうかにある、という洞察である。また、ローソンが中央集権ではなく分権を選んだ背景には、資源の制約を認め、それを逆手に取って独自の強みへと転換する柔軟な発想があった。つまり、勝てない土俵で戦うのではなく、自らの土俵を再設計することこそが競争優位の源泉となる、という教訓を提示している。
結論
総じて、本書はローソンの改革史を通じて「弱者が強者に挑むための知恵」を鮮やかに描き出している。新浪の施策は時に強引で、賛否両論あるものの、その根底には「現場を信じ、個を活かす」という一貫した哲学があった。セブンイレブンの強大な中央集権モデルと対比させることで、ローソンの分権経営のユニークさが浮かび上がり、読者に経営戦略の多様性を考えさせる効果を持つ。ただし、その記述はやや英雄譚に寄りすぎており、批判的視点を欠く部分も見られる。とはいえ、改革における「物語の力」と「信頼の再構築」の重要性を学べる点において、本書は企業経営に携わる者にとって示唆に富むテキストである。