著者:フランク・モス、千葉敏生(訳)
出版社:早川書房
出版日:2012年08月01日
MITメディアラボとは
マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボでは、人間とテクノロジーをつなぎ、社会課題を解決して世界をより良くするための研究が進められています。
たとえば、義足の開発、自閉症の人のためのコミュニケーションツール、正確な診断や服薬を支えるインターフェイスなどです。ここでは「テクノロジーに使われる」のではなく、「人々がより健康で豊かに生きるためにテクノロジーを使う」ことが重視されています。
また、普通の人々に新しい力を与える研究も行われています。子どもでも作曲できるソフトや、直感的にプログラミングを学べるソフトなどがその一例です。実際、電子書籍リーダーに使われる電子インク(E-ink)や、レゴの人気商品「マインドストーム」など、私たちの身近な製品にも応用されています。
方法論① 専門分野にとらわれない研究
MITメディアラボの独創的な発明は、その独自の研究スタイルから生まれています。大きな特徴は「専門分野にとらわれない」ことです。
たとえば「スマート・シティ」グループには、自動車設計の専門家はほとんどおらず、建築、都市計画、工学、医学、芸術など多様なバックグラウンドを持つ学生が参加しています。専門家にありがちな固定観念を避け、自由な発想で問題に挑むのが狙いです。
現代の課題は、貧困や気候変動から肥満まで、多次元で複雑です。従来の細分化された専門的アプローチでは対応できず、学問の垣根を越える必要があるのです。
方法論② 出資者に縛られない
メディアラボの研究を支えているのはスポンサー企業です。企業は年会費として資金を提供しますが、研究内容への口出しはしません。年2回の「スポンサー・ウィーク」で成果のデモを行うだけです。
企業が求めるのは、自社からは出てこないような創造的なアイデアです。そのため、研究者に市場ニーズを伝えることはあっても、短期的な商品開発を強要することはありません。企業研究員がメディアラボに参加できる仕組みもあり、研究プロセスそのものに触れられることが大きな価値となっています。
方法論③ アイデアはすぐ形に ~デモ・オア・ダイ~
メディアラボでは「思いついたらすぐ形にする」ことが徹底されています。雑なプロトタイプでもよいので作り、デモを繰り返し、フィードバックを得ながら改良を重ねます。この姿勢を「デモ・オア・ダイ(デモできないなら死んでしまえ)」と呼びます。
例として、どんな場所でもスクリーンに変えるウェアラブル「シックスセンス」があります。最初の試作品は不格好でしたが、デモによるフィードバックで改良され、実用化に近づきました。
学生たちも、このアプローチを実践できるように、入学直後から工具の使い方や加工技術を学び、実際に手を動かすスキルを身につけます。
テクノロジーが人々の役割を変える
MITメディアラボは、人々をテクノロジーで豊かにするだけでなく、「人々の役割を変える」ことを重視しています。
たとえば、服薬を忘れる問題に対しては、単なるアラームではなく、薬を飲まなかった場合に血中濃度やウイルスの増殖がどう変化するかを可視化するツール「コラボリズム」を開発しました。その結果、HIV患者の多くが処方通りに薬を飲めるようになりました。
これは、患者を「医師に従うだけの存在」から「自ら健康をつくる主体」へと変える取り組みです。専門家だけが理解できると思われていた知識を一般の人に開くことで、人々が自分の幸福に積極的に関われるようになるのです。
まとめ
MITメディアラボは、専門の壁を越え、出資者に縛られず、アイデアをすぐ形にすることで、社会を変えるテクノロジーを生み出しています。
その根底にあるのは「人間を信じ、人間とテクノロジーを近づけることで、人々が自分の幸福に主体的に関われるようにする」という思想です。
批評
良い点
本書が取り上げるMITメディアラボの活動は、人間とテクノロジーの関係性を根底から再考させる力を持っている。特筆すべきは、研究の対象が単なる技術革新にとどまらず、社会的課題や個人の幸福の実現に直結している点である。義足や自閉症支援ツール、服薬管理インターフェイスといった事例は、テクノロジーが弱者の生活を実質的に改善する可能性を示している。また、E-inkやレゴ・マインドストームといった成果が既に社会に普及していることは、この研究所が「未来を夢見る場」にとどまらず、現実に革新を実装してきた証拠である。さらに、専門領域を横断するチーム構成や「デモ・オア・ダイ」の実践主義は、創造性と実効性を両立させるユニークな方法論として高く評価できる。
悪い点
一方で、本書に描かれるMITメディアラボの姿勢には危うさも存在する。まず、専門家不在の構成は斬新さを生む利点があるものの、深い技術的課題への対応力や持続的な改良には限界がある可能性がある。加えて、スポンサー企業との関係は表面上自由であると描かれるが、実際には市場のトレンドや企業の期待に影響される部分が不可避であり、研究の独立性が完全に保たれているかは疑問が残る。また「デモ・オア・ダイ」の文化はスピード感を生むが、短期的成果を優先するあまり、長期的で体系的な研究の軽視につながる危険性もある。さらに、テクノロジーに主体性を与えすぎることで、人間の判断力や倫理観をどこまで信頼できるのかという問題も看過できない。
教訓
本書から得られる最大の教訓は、「複雑な社会課題に立ち向かうには、既存の枠組みを壊し、分野横断的な知と実践を結集する必要がある」という点である。専門知識に偏ると発想は固定化されるが、異なるバックグラウンドを持つ人々が協働することで、まったく新しい解決策が生まれる可能性が広がる。また、完璧を目指すのではなく、まず形にし、社会に見せ、フィードバックを通じて改善していく「プロトタイプ思考」は、現代のイノベーションにおいて有効なアプローチであることを強調している。さらに、人々に「自己決定権」を与える技術の設計は、テクノロジーが人間を支配するのではなく、人間の主体性を強化するために用いられるべきだという重要な視点を提供している。
結論
総じて、本書はMITメディアラボの哲学と方法論を通じて、「テクノロジーと人間の新しい関係性」を鮮やかに描き出している。その本質は、技術を目的化するのではなく、人々が自らの可能性を広げ、幸福に主体的に関わるための「手段」としてテクノロジーを位置づける点にある。ただし、その実践には矛盾やリスクも孕んでおり、専門性と自由さ、短期成果と長期研究、市場の要請と独立性といった緊張関係の中で、いかにバランスをとるかが問われ続けるだろう。本書は単なる研究紹介にとどまらず、読者に「未来の技術は誰のためにあり、誰によって形づくられるべきか」という根源的な問いを投げかけている。その意味で、科学技術に携わる者だけでなく、社会の一員としての私たち全員にとっての思索の糧となる作品である。