著者:R.ジェイムズ・ブライディング、北川知子(訳)
出版社:日経BP
出版日:2014年11月04日
スイスの発展は「不利」から始まった
スイス国立銀行の元総裁ジャン=ピエール・ロートは、「スイスは貧しい小国だったからこそ発展した」と語っている。実際、スイスの成功の背景は、一見すると絶望的な条件にあった。
鉱物資源は乏しく、農耕に適さない不毛な土地が多い。山岳地帯が多いため交通や通信は発展しにくく、外海に面していないため植民地から富を得ることもできなかった。さらに、山間の孤立した地域ごとに宗派や社会構造が異なり、人々は協調して生きるしかなかった。こうした環境が、早い段階から移民を受け入れる素地をつくり、現在では人口の約3分の1が移民かその子孫である。
移民と起業家精神が築いた繁栄
スイスの繁栄は、産業を超えて続いた起業活動の積み重ねによって生まれた。しかし、多くの成功者はスイス出身ではなく移民だった。
- ネスレ創業者アンリ・ネスレ(ドイツ出身)
- スウォッチのニコラス・ハイエク(レバノン出身)
- ロジャー・フェデラーの母(南アフリカ出身)
移民は最初は疑いの目で見られるが、成果を示すことで尊敬を得てきた。さらに、スイスから海外へと活躍の場を広げたスイス人起業家も多い。セザール・リッツ(ホテル経営)やルイ・シボレー(自動車産業)はその代表例である。
教育と職業訓練の力
スイスでは大学教育と並び、伝統的な徒弟制度による職業訓練が重視されてきた。地味な職業でも専門資格を持つことで尊敬され、誇りを持って働ける。その結果、安定した中間層が形成され、社会の基盤が強固になった。
早期の国際化と企業文化
国内市場の狭さから、スイス産業は早くに国際化した。
- 外国人労働者や文化を受け入れる柔軟性
- 海外企業の買収後も自律性を尊重する風土
- 謙虚さと語学力を武器に国際競争で優位に立つ
こうした特徴が、スイス企業を「好まれる買い手」とし、国際的な成功につながった。
スイスの統治構造と中立性
スイス政府は拡張主義ではなく内向きで、「小さいことは良いことだ」という思想が根付く。強い州の自治、国民の権利尊重によってボトムアップ型の社会が築かれた。また、永世中立国であることは、ヨーロッパの戦乱の中で商人や製造業者に機会を与え、迫害された優秀な人材を呼び込んだ。
軍事制度がもたらす結束
スイスは中立国だが国民軍を持ち、兵役制度は社会的な交流の場でもある。出自や職業の異なる人々が交流し、ネットワークを築くことで国内の結束を高めた。
ネスレの成長物語
ネスレは移民起業家アンリ・ネスレによって誕生し、粉ミルクの開発で世界に広まった。第二次世界大戦ではアメリカ軍の需要で急成長し、やがて「ネスカフェ」「ネスプレッソ」など革新的製品を展開。1980年代以降は積極的な買収戦略で黄金期を築き、世界最大級の食品企業へと成長した。
スイス時計産業の興亡
18世紀のアブラアム=ルイ・ブレゲは、芸術性と技術革新でスイス時計を国際的に高めた。第一次世界大戦以降、腕時計は兵士に不可欠となり、スイスは世界一の時計大国となった。
しかし1970年代、クォーツ時計の台頭で危機に直面。大量の失業が発生したが、ニコラス・ハイエクによる「スウォッチ」の開発が産業を救い、ファッション性と安価さで世界的ヒットを飛ばした。その後、高級機械時計市場も復活し、スイスは再び主要産業として時計製造を取り戻した。
危機を乗り越えるスイスの強み
スイスは時代ごとに危機に直面しながらも、環境変化に巧みに適応してきた。その経済的成功と独自の統治制度は、世界の先進国にとって自己評価の指標となっている。
批評
良い点
この本の最大の強みは、「資源に乏しい不利な環境こそがスイスの繁栄を育んだ」という逆説的な歴史観を多角的に描いている点にある。農耕に不向きで交通の発展も遅れたという条件を、むしろ協調と多様性の受容を必然化する力として描き出す構成は説得力がある。さらに、移民の果たした役割や徒弟制度による中間層の厚さ、企業の国際化戦略など、スイスの特異な成功の要因を網羅的に論じている点は高く評価できる。ネスレやスウォッチなど具体的事例を豊富に交えることで、抽象論に陥らず実証的な重みを与えていることも、本書の魅力である。
悪い点
一方で弱点として挙げられるのは、スイスの成功をやや理想化しすぎる傾向である。移民が果たした貢献は強調される一方で、その陰にある社会的摩擦や排除の問題は簡潔に触れられるのみで、批判的分析が不足している。また、企業買収や国際化の成功を称賛する記述も多いが、グローバル資本主義の負の側面や格差拡大といった課題に対する掘り下げは見られない。さらに、時計産業や食品産業の歴史は豊富に取り上げられているが、金融や医薬品といった現代スイス経済の別の柱への言及は相対的に少なく、バランスに欠ける印象を残す。
教訓
この本から導かれる教訓は、逆境をいかに「資源」として転換するかが国や社会の未来を左右するという点に尽きる。地理的条件や歴史的制約を言い訳にせず、それをむしろ多様性、柔軟性、国際性といった強みに変換する姿勢が重要だという示唆を与えている。また、徒弟制度のように地味ながら尊重される職業訓練の仕組みが、健全な中間層を維持し社会の安定をもたらすことも、現代の多くの国々が学ぶべき点である。リーダーが権力を集中させるのではなく、分権と自律を尊重することで組織や国家が持続的に発展するという視点も、普遍的な教訓として響く。
結論
総じて、本書はスイスという小国がいかにして「不利」を「有利」に変え、世界的な存在感を築いたのかを描いた優れた文明論的経済史である。豊富な事例と人物像を通して、危機に直面しても適応と革新を繰り返してきたスイスの姿は、今日の不確実な世界においても大きな示唆を与える。ただし、その成功の背後にある矛盾や負の側面を補足することで、より厚みのある批評的理解が可能になったであろう。本書は、スイスの特異性を描くだけでなく、他国が自らの制度や社会構造を再考するきっかけを与える刺激的な作品といえる。