著者:矢野和男
出版社:草思社
出版日:2014年07月25日
ウェアラブルセンサによる人間行動の科学的解析
24時間継続的に行動を記録するリストバンド型センサを用い、著者自身が8年間にわたり1秒間に20回の計測を行った膨大な加速度データを分析した成果が本書である。これにより、社会現象や人間行動を定量的に解明する新しいサイエンスが可能となった。
人間の時間の使い方と法則性
本書が最初に掲げた問いは「人の行動に科学的な法則性があるのか」である。センサ技術で得られる大量データを解析することで、時間の使い方が意思によって自由に決められるのか、それとも法則によって制約されるのかを検証する。
U分布という普遍的な行動パターン
被験者の腕の動きのデータから、人間の行動は「U分布」と呼ばれる統計分布に従うことが明らかとなった。これは、従来の正規分布と異なり、偏りを許す自由度の高い分布であり、人間行動や社会現象全般に見られる。
繰り返しのやりとりが生む偏り
分子の衝突でエネルギー分布が偏るように、人間の行動も「やりとりの繰り返し」により偏りを生む。その結果、人間の時間配分や活動はU分布に従う。これにより、一日の「活動予算」が決まり、時間の使い方は意思だけでは自由に制御できない。
幸せは行動によって決まる
双子研究によれば、幸せの半分は遺伝で決まるが、残りの40%は自ら行動を起こすかどうかに左右される。著者は「幸せは加速度センサで測れる」と断言し、幸せな人ほど身体の動きが多いことを明らかにした。
センサデータと心理学的手法の融合
加速度データは暗号のような数列であるが、アンケートなど心理学的手法と組み合わせることで、人間の「心」を可視化できる。この研究により、幸せの計測と制御技術が現実のものとなる。
幸せと生産性の関係
実験では、コールセンターでの休憩所の会話が活発だと受注率が向上することが判明した。また、幸せや身体運動は集団内で伝播し、組織全体の生産性を高める。経営においては「現場の活発度を高める投資」が有効である。
ビッグデータ専用コンピュータ「H」の登場
膨大なセンサデータを解析するために開発されたコンピュータ「H」は、人間では立てられない仮説を生成できる。店舗実験では「高感度スポット」に従業員を配置する提案により、顧客単価が15%向上した。
学習するマシンと知識労働の未来
従来のマニュアル化による効率向上には限界があるが、「学習するマシン」は膨大なデータから学習し、人間の経験を超える判断を行える。これにより、知識労働者はデータに基づき柔軟に適応し、変化を生み出す理想的な労働形態へと進化する。
批評
良い点
本書の最大の魅力は、従来の社会科学が定性的にしか扱えなかった「人間行動の規則性」に、膨大なウェアラブルセンサーデータを用いて定量的に迫っている点である。著者自身を含む長期間の実測データに基づき、統計的な分布として「U分布」という独自の概念を提示したことは、研究上の独創性に富む。正規分布が表せない「ばらつき」や「偏り」を、物理学のエネルギー分布とのアナロジーで巧みに説明し、人間の行動を普遍的な法則へと接続する試みは学際的で刺激的だ。また、幸せの身体的表現を「活動量」に結びつける発想は直感的にわかりやすく、心理学と工学を架橋する意欲的な研究姿勢が感じられる。さらに、実験によって幸福感や生産性が環境要因により操作可能であることを示した点は、理論と実践を行き来する研究の厚みを生んでいる。
悪い点
一方で、本書にはいくつかの限界も見受けられる。まず、被験者数が12人と少なく、サンプルの偏りが強い可能性を否定できない。U分布という理論の普遍性を強調するあまり、文化的・社会的背景や性別・年齢差などを軽視している印象がある。また、センサーデータから「幸せ」を計測するという試みは斬新だが、身体運動と幸福感の単純な相関に依拠しており、精神的な充実感や自己実現といった要素を十分に説明しきれていない。さらに、企業経営への応用事例は興味深いが、科学的な妥当性よりも即効的な効果を強調する姿勢が強く、読者によっては「科学とビジネスの境界」を曖昧に感じるかもしれない。大量データから人間が理解できない仮説を導き出す「学習するマシン」についても、説明不足のまま未来像を提示しており、現実との距離感にやや乖離が見える。
教訓
本書から得られる最大の教訓は、「人間の行動は自由意志だけでなく、必然的な統計的法則に従っている」という事実である。意思の自由を信じがちな我々に対し、行動には見えざる制約があることを示すのは新鮮である。と同時に、その制約を知ることで逆に日常の時間管理や幸福の実現に役立てられる可能性がある。また、データによる科学的理解は、従来の心理学や社会学的知見を排除するのではなく、補完的に活用することが重要だとわかる。つまり、センサー技術や機械学習が人間行動の真理を解き明かすためには、必ず人間自身の経験的・質的理解と統合する必要があるということだ。さらに、幸福や生産性が「環境」や「集団の活発さ」に依存するという知見は、個人の努力を超えた社会的連鎖の重要性を示しており、経営や組織運営に対する新しい視点を与える。
結論
総じて本書は、センサーデータを用いた人間行動の定量化と、その社会的応用可能性を広く提示する野心的な試みである。実験結果のユニークさや科学と社会を横断する議論は刺激的であり、読者に「人間の自由とは何か」「幸福を科学できるのか」といった根源的な問いを投げかける。一方で、サンプル規模や説明の単純化、未来像の楽観性といった弱点は残るものの、それを差し引いても本書は新しい学問的挑戦として十分に評価されるべきだ。人間の行動や幸福をセンサーで測り、制御するという発想は、倫理的議論を必要としながらも、これからの社会に不可避なテーマである。したがって本書は、科学とテクノロジーが人間理解にどこまで迫れるのかを考える上で、極めて示唆的な一冊といえるだろう。