著者:佐々木紀彦
出版社:東洋経済新報社
出版日:2011年07月21日
米国の大学教育の光と影
米国の大学教育には、日本が学ぶべき多くの長所がある一方で、必ずしも優れているとは言えない点も存在する。
米国大学の弱点
まず目立つのは、文系学生の数学力の低さだ。入学試験は日本の中学校レベルに相当し、成績評価も日本で言われるほど厳しくはない。授業の質も期待ほどではなく、上位層だけを比べれば日米に大差はない。
米国大学の強み
一方で、米国大学の強みは「知的エリートを育成する仕組み」にある。特に、読書・レポート・プレゼンテーションなど膨大な課題が学生に課されるため、自然と知的な基礎体力が鍛えられる。スタンフォードの学部生は4年間で最低480冊を読むと言われるほどだ。
さらに、娯楽が少なく勉強に集中できる環境も特徴的で、修行僧のように知識を蓄える生活を送ることが可能となる。
学歴の重みとネットワーク
「学歴社会」は日本だけでなく米国でも顕著である。むしろ米国の方が学歴の影響は大きく、企業経営者やシリコンバレーの起業家にもトップスクール出身者が多い。背景には、大学の人的ネットワーク=「大学閥」が大きな役割を果たしており、それが情報とチャンスの格差を生む。
学部選択の傾向
日本で人気の法学部は米国には存在せず、ロースクールは大学院に限られる。米国で最も人気のある学部は経済学部で、合理的な意思決定に役立つ学問であることや、高収入につながる金融業界への就職が可能になることが理由だ。
就職活動とリスクヘッジ
米国の学生が金融やコンサルに流れるのは「潰しが効き、高給でリスクが少ない」からである。必ずしも志望しているわけではなく、将来の選択肢を広げるための安全策として選んでいる人が多い。これに対し、日本では就職をゴールと考えがちで、次の一手やリスク回避の発想が乏しい。
米国エリートの三類型
米国のエリートは大きく三つに分類できる。
- 金融マンや起業家などの「経済エリート」
- 政治家や官僚などの「政治エリート」
- 軍や軍需産業に関わる「軍事エリート」
中でも最も力があるのは「経済エリート」で、財力が権力や名誉をも左右する点に米国の特徴がある。
歴史との向き合い方
米国は建国が若い国であるにもかかわらず、歴史を重んじる。歴史を基盤に議論を展開し、失敗を迅速に分析し後世に引き継ぐ姿勢がある。日本と異なり、エリートは自伝を残し、教訓を共有する責任を果たそうとする。
日本が抱える課題
日本には国際政治や経済に精通したゼネラリストが少なく、戦略的思考に欠ける。官僚は法学部出身が多く、経済学の素養が不足し、省益優先の姿勢が視野を狭めている。
インプットとアウトプットの差
日本と米国の最大の違いは、インプットとアウトプットの質と量にある。深い読書を通じて知識を体系化し、議論で意見をぶつけ合う米国の学生に対し、日本の学生は批判を避け、知を磨く機会を失いがちだ。
グローバル時代のエリート像
これからのエリートは国境を越えて活動するが、そのためには確固たる「ホームグラウンド」と健全な愛国心が必要となる。バランスの取れた愛国心は、正確な歴史知識と個人の自立によって支えられる。
批評
良い点
本書の優れた点は、米国の大学教育の光と影を冷静に描き出し、単純な称賛や批判に終始していない点にある。たとえば、米国の文系学生の数学力不足や成績評価の緩さを指摘しつつも、読書量や課題の多さが学生の知的基盤を厚くしていることを具体的に描く。さらに、スタンフォードの学生が卒業までに480冊もの読書を課される事実や、厳しいインプットとアウトプットの訓練が平均値を押し上げる点は、数字を交えて説得力を持たせている。教育の成果を単なるエリート層ではなく「全体の底上げ」に見いだしている点は、日本の教育改革に対して重要な示唆を与えている。
悪い点
一方で、本書の弱点は、米国社会や教育制度の「負の側面」に対する掘り下げが十分でない点である。たとえば、米国の大学が学歴社会であり、実力よりもトップスクールのブランドや人脈が成功に直結している現実を指摘するが、そこから派生する不平等や社会的分断への影響にはほとんど言及しない。また、米国の学生が金融やコンサルに流れる「リスクヘッジ」の姿勢を冷静に分析しているが、その結果として生まれる社会全体の価値観の均質化や、創造的分野の衰退については議論が浅い。日本批判に比べて米国批判が控えめであるため、ややバランスを欠いた印象を与える。
教訓
本書から得られる最大の教訓は、「インプットとアウトプットの質と量こそが知的基盤を決定づける」ということである。日本の学生と米国の学生の能力そのものに大きな差はないが、読書量や議論量の差が知的成熟度の差となって現れる。さらに、批判を受け入れ、それを自らの成果物に反映させる姿勢は、日本の教育や社会が学ぶべき重要な態度である。また、学歴が社会的ネットワークの要として機能する現実は、能力主義を標榜するどの国においても避けて通れない事実であり、日本における「学歴偏重批判」との比較は、教育の本質的役割を再考させる契機となる。歴史から学び、失敗を後世に活かす姿勢もまた、知的社会の成熟度を測る指標として重みを持つ。
結論
総じて本書は、米国の大学教育を単なる理想化でも悪魔化でもなく、実態を多角的に描き出した良書である。その中で浮かび上がるのは、日本が真に学ぶべきは「教育制度の表層」ではなく、「知を積み重ね、批判を通じて高め合う文化」そのものであるという結論だ。米国のエリート養成の仕組みは強烈に資本主義的であり、功利主義的である一方、その徹底ぶりが社会全体の知的水準を底上げしている。日本においては、量と質を兼ね備えたインプット、批判を恐れぬ議論文化、そして歴史から学ぶ姿勢が欠けていることが、国際競争力の差を生んでいる。本書はその差異を照らし出し、「真にグローバルな知的エリート」とは何かを考えさせる契機を与える。