著者:マイケル・サンデル、鬼澤忍(訳)
出版社:早川書房
出版日:2014年11月07日
お金で買えないものはあるのか
かつて「お金で買えないものがある」と言われてきましたが、現代ではほとんどあらゆるものが売買の対象となっています。
例えば、アメリカの一部の刑務所では特別料金を払えば快適な独房に入れます。また、ニュージーランド航空は頭髪を広告スペースとして貸し出す人を雇った例もあります。
市場が生活を支配する時代
冷戦後、市場と市場的思考はこれまでになく力を持つようになりました。市場は物の分配だけでなく、人々の生活全体を形作るようになっています。
すべてが売り物になることへの懸念
すべてが売り物になる社会には、二つの問題があります。
- 不平等の拡大: 医療や教育、安全な住環境など、本来基本的に保障されるべきものまでがお金で左右される。
- 腐敗の誘発: 市場取引は対象への価値観を変え、読書や学び、政治参加などが「金銭目的の手段」と化してしまう。
行列をお金で買うロビイスト
ワシントンDCでは、ロビイストが委員会公聴会の席を得るため、代行業者にお金を払い行列に並ばせています。経済学者は「市場は効率的」と擁護しますが、結果的に一般市民の機会を奪い、公共の場を私益化してしまいます。
健康管理と金銭的インセンティブ
企業は従業員にお金を払って禁煙や運動を促しています。しかし短期的効果はあっても、インセンティブが消えれば元に戻るケースが多いのが現実です。健康的な習慣を育むという本来の目的を損なう可能性があります。
市民的義務をお金で売るとどうなるか
スイスの村では、核廃棄物処理場の建設に「義務感」で賛成した人が多数いました。ところが、補償金を提示されると賛成は激減しました。お金が介入することで「市民の義務」が「金銭的取引」に変質してしまったのです。
スポーツと商業主義
プロ野球球場の命名権やスポンサー付き実況は、スポーツの意味そのものを変えてしまいます。市場は単に利益を生むだけでなく、その痕跡を文化や価値観に刻みます。
市場の限界と私たちの選択
市場は効率的な仕組みである一方で、すべてを任せるべきではありません。
- 書物や教育、公共の議会、健康管理などには非市場的な価値がある。
- どこまで市場に委ねるのかを議論することが不可欠。
結局の問いは「私たちはどんな社会に生きたいのか」ということです。
あらゆるものが売り買いされる社会を望むのか、それともお金では買えない価値を守る社会を望むのか――その選択が問われています。
批評
良い点
本書の最も大きな魅力は、市場原理が生活の隅々にまで浸透しつつある現代社会の姿を、多角的かつ具体的な事例によって提示している点である。刑務所の独房の格上げから始まり、健康維持への金銭的インセンティブ、議会の行列代行やスポーツにおける命名権販売など、一見無関係に思える現象を一つの軸――「お金が介入することで人間の態度や価値観が変容する」という視点――で結びつける構成は説得力がある。また、経済効率の観点からは合理的に見える施策が、道徳や公共性の観点からは問題を孕むことを明らかにする議論は、読者に強い知的刺激を与える。単なる市場批判に留まらず、経済学的論理と倫理的課題を対置することで、社会に必要な熟議の出発点を提示している点は高く評価できる。
悪い点
一方で、本書の議論にはある種の偏りも感じられる。市場原理の拡張がもたらす利益や実際の利便性については相対的に扱いが薄く、負の側面ばかりが強調されているため、読者によっては結論ありきの批判に映る恐れがある。また、道徳的価値や公共性の守備範囲をどう定義するかという点については十分に掘り下げられておらず、「市場には入ってはならない領域がある」と指摘するに留まり、明確な基準や実践的なガイドラインの提示が弱い。そのため、問題提起の重要性は認めつつも、解決の方向性が曖昧なままに終わる印象を与える部分がある。さらに、アメリカやヨーロッパの事例が中心であり、文化的背景による価値観の差異が十分に考慮されていない点も弱点といえる。
教訓
本書から導かれる最大の教訓は、効率性や個人の自由を重視する市場論理だけでは、人間社会の全てを説明できず、また規範としても不十分であるということである。お金が介入することで、行動の動機や物事の意味そのものが変質し、道徳的責任や市民的義務が失われる危険性がある。スイスの核廃棄物処理場の事例はその象徴であり、金銭的補償の導入がかえって人々の公共的責任感を損なったことは、市場が万能ではないことを如実に示している。つまり、何を売り物にするかは単なる経済効率の問題ではなく、我々がどんな社会を望むのか、そしてどんな価値を守るべきかという根源的な問いに結びついているのだ。
結論
総じて、本書は「市場の道徳的限界」という難題に真摯に取り組み、読者に深い思索を促す優れた批評的著作である。市場原理を全面的に否定するのではなく、その力を認めつつも、人間の尊厳や公共性を守るために境界線をどこに引くべきかを問う姿勢は、現代社会にとって極めて重要な問題提起である。欠点として、具体的な制度設計や実践的提案に乏しい点は残るものの、むしろそれは読者自身に議論を継続させる余地を残しているとも言える。効率と道徳、自由と公共性のバランスをいかに取るかという課題は、今後も私たちが避けて通れないテーマである。本書は、その議論の出発点として十分な価値を持つ一冊である。